60年以上に渡り2,200回を超える録音セッションに参加してきたベーシスト、ロン・カーターは、ジャズ史に消えることのない足跡を残してきた。1963年から1968年にかけてのマイルス・デイヴィス第2期黄金クインテットのメンバーとして注目を集めた彼は、ブルーノートをはじめ、プレスティッジ、リヴァーサイド、アトランティック、CTI、マイルストーンといった名門レーベルから発表された数々の歴史的ジャズ作品に参加している。
多作で引く手あまたのサイドマンとして、彼はブルーノートを代表する多くの巨匠たちが生み出したリズムやハーモニーの革新に応えてきた。他者の録音において常に柔軟性に富んだ演奏を聴かせる一方、自身の名義でも60枚を超えるアルバムを発表している。
ポスト・バップ、モード・ジャズ、フュージョン、さらにはクラシックまで、多様な音楽環境の中で新境地を切り開きながら、室内楽的なノネットや親密なトリオから、先進的なカルテットや大編成ビッグバンドに至るまで、さまざまな編成でレコーディングを行ってきた。
しかし、ロン・カーターは過去を振り返る人物ではない。近年も、ウォルター・スミス3世の『Twio Vol. 2』へのゲスト参加や、ゴスペル・シンガーのリッキー・ディラードとのブルーノート作品『Sweet, Sweet Spirit』など、現在と未来に向けて活動を続けている。
ロン・カーター&リッキー・ディラード Sweet, Sweet Spirit
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ウォルター・スミス三世 Twio Vol. 2
Available to purchase from our US store.亡き母への追悼作品である『Sweet, Sweet Spirit』は、母が最も愛した賛美歌を、彼女の最期の日々にカーターがベースで書き留めた作品集である。「アレンジ、人選、スケジュール調整、スタジオ探しなど、本当に多くの作業を行った」と、89歳の誕生日を数日後に控え、マンハッタンのブルーノートでフォーサイト・カルテットとの公演を行う直前にカーターは語った。「ニューヨークでまだ営業しているスタジオを見つけることは、そこで録音することと同じくらい大変だった。この作品を現在の形に仕上げるために、私たちは数多くの課題を乗り越えなければならなかった」
デトロイト郊外のファーンデールで育ったカーターにとって、教会は音楽が共同体にもたらす力を教えてくれた場所であった。「どの教会にも聖歌隊がいて、人々は助けを求める必要からこうした賛美歌を歌っていた。それは単なる社交の場でもなければ、レシピを交換する場所でもなかった」さらに「歌うことは説教や歌詞を通じて意思を伝える方法だった。それが彼らの抗議の手段であり、自分たちが直面している苦難から救いを得る方法だったのだ」と語った。
それから80年後、カーターは幼い頃から耳にしてきた楽曲のアレンジに取り組んだ。当時10歳だった彼には、その歌詞の意味はほとんど理解できていなかった。「歌詞の持つ激しさを妨げないようなベース音と、その配置を見つけなければならなかった」「しかし同時に、ベースは木材をつなぎ留める釘のような存在であり続けなければならなかった」
カーターが音楽を始めたのは10歳の時で、母親に勧められて学校の音楽プログラムに参加したことがきっかけであった。彼が最初に選んだ楽器はチェロであり、デトロイトにある有名進学校キャス・テクニカル・ハイスクールで学んでいた時、同級生のポール・チェンバースがニューヨークへ移ったことをきっかけにベースへ転向した。「学校のオーケストラに空席が出たので『それをやろう』と思ったんだ。そこで両親を説得してコントラバスを買ってもらい、チェロを売ってベース教師をつけてもらった」と彼は振り返る。

こうしたクラシック音楽の基礎は、後のジャズ・ミュージシャンとしての彼に大きな影響を与えた。「曲を組み立てるという考え方は、後にジャズ作品を書く際に非常に重要だった。そのおかげで、曲の構造が適切でない場合や、コード進行の設計に問題があって機能していない場合に、何が間違っているのかを見抜けるようになった」「また、それは練習への集中方法も教えてくれた。イーストマン音楽院の競争は非常に激しく、特に当時のクラシック界は有色人種の音楽家に対して決して積極的ではなかったため、私は人一倍練習しなければならなかった」と話す。

イーストマン音楽院に在学中、カーターはピー・ウィー・エリスと組んだグループで、ピトッド・クラブにて初めてのジャズ・ギグをこなした。その後1959年、カーターはドラマーのチコ・ハミルトン率いるクインテットで大きな転機を迎えた。「ロチェスターでのコンサートでチコと知り合ったんだ。彼が『ニューヨークに着いたら、バンドのチェロ奏者が引退するんだ』と言うので、僕は『それなら僕がやれるよ』と答えたんだ。それで卒業後、1959年8月にニューヨークへ移ったんだ」と彼は振り返る。「ニューヨークに着くと、チコから『ベース奏者が抜けるから、そのポジションはまだ空いているけど、これからは立って演奏しなきゃいけないよ』と言われた。そうして僕はチコやエリック・ドルフィーと一緒に演奏する座を勝ち取った。あれがニューヨークでの僕の最初の大きな仕事だったんだ」
それは実り多いパートナーシップの始まりとなった。1961年、カーターはヴァン・ゲルダー・スタジオでエリック・ドルフィーと合流し、後にニュー・ジャズ(その後プレスティッジに改称)からリリースされる1961年のアルバム『アウト・ゼア』のレコーディングに参加した。このアルバムで、カーターはベースのジョージ・デュヴィヴィエと共に、チェロで新たなアヴァンギャルド音楽という挑戦に立ち向かった。「エリック・ドルフィーから受けた影響は、彼の練習への献身的な姿勢だった。彼は、たとえ裏庭で小鳥のさえずりが聞こえていても、いつもどこかで演奏していたよ」とカーターは語る。「また、彼は私が頭の中で描いていた音楽を表現するための語彙を身につける手助けをしてくれ、それによって私が求めていたものを見つけ出すことができたんだ」
「サックス奏者たちは皆、同じ楽器を使いながらもそれぞれ独自の音色を持っていた。だから、僕だってベースで同じことができるはずだと思ったんだ」と彼は付け加える。「それがどれほどの努力を要するかは分からなかった……しかし、イーストマン音楽院で和声を学び、コードの分析方法も知っていたので、和声の変化は理解できていた。だから、ベース音の持つ力を理解していたし、一緒に演奏している連中に、自分のベース音の力を確実に感じさせてやると決心していたんだ」
『アウト・ゼア』のレコーディングから1年後、カーター(ベースとチェロ担当)は、ピアニストのマル・ウォルドロンとドラマーのチャーリー・パーシップ、ドルフィーとデュヴィヴィエを再びヴァン・ゲルダー・スタジオに招いて、自身の名義による初のアルバム『ホエア?』をレコーディングした。このアルバムもニュー・ジャズからリリースされた。1963年、ニューヨークのハーフ・ノート・クラブでトランペット奏者アート・ファーマー率いるカルテットとして2週間に渡るレジデンシー公演を行っていた際、マイルス・デイヴィスから声がかかった。「彼は、ジミー・コブとポール・チェンバースが脱退するため(彼らはウェス・モンゴメリー・カルテットに加入)バンドが解散することになり、次のベーシストに僕を起用したいと言ってきたんだ」とカーターは語っている。
ドラマーのトニー・ウィリアムス、ピアニストのハービー・ハンコック、サックス奏者のウェイン・ショーターと共にマイルス第2期クインテットへ加入したカーターは、1963年から1968年にかけてコロムビアからリリースされた6枚の革新的アルバム――『E.S.P.』、『マイルス・スマイルズ』、『ソーサラー』、『ネフェルティティ』、『マイルス・イン・ザ・スカイ』、そしてエレクトリック・ベースも演奏した『キリマンジャロの娘』――を通じて、モダン・ジャズの定義そのものを塗り替えることに貢献した。
「当時はいろいろなことが起きていた。しかしスモール・グループという形式においては、あのバンドこそが中心だった」とカーターは語る。
マイルスと過ごした5年間は、バンドリーダーとしての在り方について多くを彼に教えた。「マイルスの言葉は命令ではなかった」とカーターは語る。「彼は決して『おい、それを弾け』とは言わなかった。常に提案であり、命令ではなかった。しかし彼は常に何かを聴いていた。私の仕事は、自分が弾いている音によって彼の注意を引きつけることだった。彼の注意を得られれば、どこか別の場所へ導くことができた。しかしそのためには、まず彼の注意を引かなければならなかった」
この重要な時代のマイルス作品において、カーターがもたらしたものは、『E.S.P.』を推進するウォーキング・ベースから、『ネフェルティティ』における複雑な和声的アプローチにまで及ぶ。クインテットはポスト・バップの境界を押し広げ、後のエレクトリック時代へと接近して行った。「当時、ジャズ・グループにおいてベース奏者はそれほど注目されていなかった。だが私は前面に出たかった。言いたいことがあったからだ」
1960年代ブルーノートで最も多作なベーシストとして、彼はハービー・ハンコック『処女航海』、ウェイン・ショーター『スピーク・ノー・イーヴル』、ドナルド・バード『コーファイ』、マッコイ・タイナー『ザ・リアル・マッコイ』、ボビー・ハッチャーソン『コンポーネンツ』、ジョー・ヘンダーソン『モード・フォー・ジョー』などの歴史的セッションに参加した。「これらのアルバムについて真っ先に思い浮かぶのは、ほとんどリハーサルをしていなかったということだ」「基本的に、私たちはルディ(ヴァン・ゲルダー・スタジオ)へ入る前に一緒に演奏する時間がほとんどなかった。皆それぞれ別の仕事や音楽活動を抱えていたからだ。だからこれらのアルバムのメンバー構成は、ある意味では偶然の産物でもあった。しかしアルフレッド・ライオンは、バンドリーダーたちが正しい判断を下すと信頼していた。そして彼らもまた、レコード会社経営者としての彼の販売感覚を受け入れていた」
1970年代半ばには、カーターはクリード・テイラー率いるCTIレーベル(その後マイルストーンへ移行)において、フュージョンおよびジャズ・ファンクの先駆的作品群に参加した。フレディ・ハバード、ジョージ・ベンソン、ヒューバート・ロウズらの作品に加え、自身名義でも5枚のアルバムを発表している。その中には『ブルース・ファーム』も含まれ、この作品で彼は高音域を持つピッコロ・ベースの旋律的可能性を探求し始めた。「ベーシストのリチャード・デイヴィスがニュージャージーの楽器製作者を紹介してくれた。そして私は、高い音域で演奏できるもっと小さなベースが欲しいと言ったんだ」と話す。
近年のブルーノート作品には、1992年のバロック・ジャズ作品『G線上のアリア〜カーター・ミーツ・バッハ』、1997年のポスト・バップ作品『ベース・アンド・アイ』、2008年の『ジャズ&ボッサ』、そして現在のリッキー・ディラードとのジャズ・ゴスペル作品までが含まれる。「このゴスペル作品には、65年間に渡って彼らと共に学んできたことが全て入っている」と話す。「マイルス、ランディ・ウェストン、ハービー・マン、ボビー・ヘブ、サム・リヴァースとの演奏から学んだこと、私がサイドマンとして参加した全ての録音から得た教訓が、この最新作に集約されているんだ」
ここで、カーターが参加したブルーノートの名盤の数々において、彼がもたらした貢献のいくつかを見ていこう。
ハービー・ハンコック 『処女航海』
ハービー・ハンコック 処女航海
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1965年3月17日、ロン・カーターはリーダーであるハービー・ハンコック、マイルス・クインテットの同僚であるドラマーのトニー・ウィリアムス、さらにトランペッターのフレディ・ハバード、テナー・サックスのジョージ・コールマンと共に、ヴァン・ゲルダー・スタジオへ集結した。この作品はモード・ジャズの金字塔として知られている。本作は、1964年の『エンピリアン・アイルズ』と1968年の『スピーク・ライク・ア・チャイルド』に挟まれる形で、カーターがハンコックとブルーノートに残した3作のうち2作目であった。ここでのカーターは、最も叙情かつ洗練された演奏を聴かせている。
ジョー・ヘンダーソン 『モード・フォー・ジョー』
ジョー・ヘンダーソン モード・フォー・ジョー
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ジョー・ヘンダーソンが1960年代にリーダーとして発表した最後の作品であり、ブルーノートでは唯一のセプテット編成作品である『モード・フォー・ジョー』には、カーターのほか、トランペットのリー・モーガン、ヴィブラフォンのボビー・ハッチャーソン、トロンボーンのカーティス・フラー、ピアノのシダー・ウォルトン、ドラムスのジョー・チェンバースが参加している。ロン・カーターの演奏を特徴づける要素のひとつがウォーキング・ベースであり、『モード・フォー・ジョー』はそれを聴くのに最適な作品である。彼のベースはセプテット全体を力強く前進させ、この偉大なモード・ジャズ作品を支えている。カーターはその後も、マイルストーンにおけるヘンダーソン作品で共演を続けて行くことになる。
ウェイン・ショーター 『オデッセイ・オブ・イスカ』
ウェイン・ショーター オデッセイ・オブ・イスカ
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ホレス・シルヴァーを除けば、カーターが最も多くのブルーノート作品を録音した相手が、マイルス第2期クインテットの同僚であるウェイン・ショーターであった。1964年の『スピーク・ノー・イーヴル』から始まった6枚の連作は、1970年の『オデッセイ・オブ・イスカ』で締めくくられる。この作品は、ショーターがウェザー・リポートへ参加する直前に録音された先見的なフュージョン作品である。ヴィブラフォンとマリンバのデイヴ・フリードマン、ギターのジーン・バートンシーニ、さらに3人のドラマーが加わる中、テナーおよびソプラノ・サックスを演奏するショーターを支え、カーターとセシル・マクビーの2人のベーシストは、「ウインド」における不穏なアルコ奏法から、「ジョイ」における高度なピチカート奏法まで幅広い表現を展開している。
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マッコイ・タイナー 『エクステンションズ』
マッコイ・タイナー エクステンションズ
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マイルス以外で、ロン・カーターが最も多く録音を残した相手がピアニストのマッコイ・タイナーである。両者はブルーノートで3作、マイルストーンで6作を共に録音した。1970年録音の『エクステンションズ』は、『ザ・リアル・マッコイ』(1967年)および『エクスパンションズ』(1970年)に続く、タイナーとの最後のブルーノート作品となった。本作では、アルト・サックスのゲイリー・バーツ、テナーおよびソプラノ・サックスのウェイン・ショーター、ドラムスのエルヴィン・ジョーンズ、ハープのアリス・コルトレーンという、タイナー屈指の編成にカーターが参加している。本作は、ブルーノート時代のポスト・バップ作品群と、後のマイルストーン時代におけるグローバルなモード・ジャズ探求との橋渡しとなる作品である。そしてカーター自身も、その探求の重要な担い手であり続けたのである。
アンディ・トーマスはロンドンを拠点とするライター。Straight No Chaser、Wax Poetics、We Jazz、Red Bull Music Academy、Bandcamp Dailyなどへ継続的に寄稿している。さらに、Strut Records、Soul Jazz Records、Brownswood Recordings のライナーノーツも執筆している。
ヘッダー画像:ロン・カーター。写真:ポール・C・リベラ。
