マイルスは人間であった。あまりにも人間的であったと言ってもよい。私生活における人間関係は決して平穏ではなく、時に望ましいとは言えない振る舞いをしたこともあった。しかし、その生涯を振り返ると、彼にもまた数多くの師や導き手がおり、音楽、ファッション、そして政治に対する姿勢を形づくった人物たちが存在したことが分かる。
スタンリー・キューブリック監督の名作映画『2001年宇宙の旅』になぞらえるなら、彼らはマイルスにとっての「モノリス」だったのかもしれない。人生の次なる進化の段階へと彼を押し進め、新たな道筋を示した存在である。マイルスは生涯に渡って何度も音楽を変革し、ジョン・マクラフリン、ジェームズ・“エムトゥーメ”・ヒース、ダリル・ジョーンズを始め、多くのミュージシャンにとって父親的存在となった。しかしその一方で、彼自身もまた、様々な人々から導きや確信を得ることを必要としていた。では、その人物たちとは誰だったのか。ここでは、その一部を紹介したい。。
エルウッド・ブキャナン
伝えられるところによれば、マイルスの母親は彼にヴァイオリンを習わせたいと考えていたという。しかしマイルス自身は、本能的にセントルイスが誇る名高いトランペットの伝統に惹かれて行った。エルウッド・ブキャナンはその伝統を受け継ぐ一人であり、リンカーン高校でマイルスを指導した教師でもあった。(また、マイルスの父の患者であり友人でもあった)。

ブキャナンが最初に下した重要な助言は、マイルスにコルネットからトランペットへ持ち替えるよう勧めたことである。さらに彼は、ハリー・ジェイムズ風の幅広いヴィブラートを捨て、代わりに長く伸びやかな「感傷に流されない」音と、スタッカートを生かしたリズミックなフレーズを行き来する奏法を身につけるよう促した。この二つはいずれも、後にマイルスのスタイルを特徴づける重要な要素となって行くのである。
ギル・エヴァンス

マイルスは1947年にギル・エヴァンスと出会って以来、1988年にギルが亡くなるまで、深い敬愛の念を抱き続けた。カナダ出身のアレンジャー兼作曲家であるギルは、マイルスに絵画を見せたり、それまで聴いたことのないクラシック音楽のレコードを聴かせたりして、その感想を求めたという。マイルスは自伝の中でこう語っている。「彼は、一緒にいるだけで楽しい人だった。誰にも見えないものを見抜くことのできる人だった」そして、マイルスとギルのコラボレーションは、音楽の歴史そのものを変えることとなった。
マイルス・デイヴィス クールの誕生 [ハイブリッドSACD]
Available to purchase from our US store.ジュリエット・グレコ


ジュリエット・グレコ、オランダ、1962年(左)と1966年(右)。写真:Jac.デ・ナイス (左) とロン・クルーン (右) / アネフォ・コレクション、国家最高責任者。
1949年にマイルスが初めてパリを訪れたことは、彼をさまざまな意味で解放した。彼はパブロ・ピカソやジャン=ポール・サルトルと出会い、女優のジュリエット・グレコと恋に落ちた。「フランスにいて、人間として、そして重要な人物として扱われるという自由があった」と、彼は自伝の中で述べている。マイルスは生涯を通じてフランスへの愛着を持ち続け、機会がある度に、友人であるジェームズ・ボールドウィンが住むサン・ポール・ド・ヴァンスを訪れることを欠かさなかった。。
マイルス・デイヴィス 死刑台のエレベーター
Available to purchase from our US store.ジェームズ・ボールドウィンのジャズ・ゴスペル
2024年は、作家ジェームズ・ボールドウィンの生誕100周年にあたる。アメリカの文学史、LGBTQ+の歴史、社会史において極めて重要な人物である彼は、マイルス・デイヴィスを始めとする数え切れないほどのミュージシャンにも影響を与えてきた。この長編記事では、ジャズ愛好家にとってのボールドウィンの意義について探っていく。

フランシス・テイラー
二人が初めて出会ったのは1950年代初頭、フランシスがキャサリン・ダナム舞踊団の一員として活動していた頃である。フランシスは洗練された教養人であり、優雅で美しく、世界各地を旅し、多くの本を読み、複数の言語を操る女性だった。その後、1950年代後半に二人は夫婦となるが、フランシスは芽生え始めていたマイルスのダンスやワールド・ミュージックへの関心を育んだ。彼女はマイルスを『アフリカン・バレエ(Ballet Africaine)』の公演へ連れて行き、その後、自身も『ポーギーとベス』、『カルメン・ジョーンズ』、『ウエスト・サイド物語』に出演している。そこに見られる音楽、身体の動き、リズム、色彩、そして複雑さが融合した世界は、その後のマイルスのアートワークや音楽に計り知れない影響を与えた。また、フランシスは1958年のアルバム『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』のジャケットにも登場している。
シシリー・タイソン

マイルスがシシリー・タイソンと初めて出会ったのは、1966年か1967年のことである。彼女は先駆的な俳優であり、公民権運動にも尽力した活動家でもあった。知性と強い意志を備えた存在であり、1970年代後半、マイルスが人生で最も苦しい時期を過ごしていた頃にも、数少ない心を許せる相談相手であり続けた。多くの証言によれば、タイソンはマイルスの立ち直りと1980年代の復活を後押しした最大の功労者であった。彼を薬物やアルコールから遠ざけ、健康食や鍼治療へと導いたのである。マイルスは自伝の中でこう振り返っている。「突然、頭が以前よりもずっと冴えるようになった」また、マイルスがスケッチやドローイングを好むようになったきっかけを作ったのもシシリーだったという。彼女は彼に最初のスケッチ・ブックを贈ったのである。二人は1981年11月に結婚し、1988年まで連れ添った。なお、シシリーはアルバム『ソーサラー』のジャケットも飾っている。
ベティ・メイブリー
マイルスがベティ・メイブリーと出会ったのは1968年春である。当時の彼女は、ニューヨークのカルチャー・シーンでひときわ存在感を放つ若き才能であり、モデル、クラブ経営者、ソングライターとして活躍していた。ベティはマイルスに、ワードローブを現代的なものへと刷新するよう勧めると共に、ファンクやソウル・ミュージックをより積極的に取り入れるよう促した。さらに、スライ・ストーンやジミ・ヘンドリックスをマイルスに紹介したのも彼女である。二人は1968年9月30日に結婚し、マイルスはアルバム『キリマンジャロの娘』に収録された「Mademoiselle Mabry」を彼女に捧げた。同作のジャケットにもベティの写真が使用されている。その後、彼女はベティ・デイヴィスの名で数々の影響力あるアルバムを発表するが、1969年末までにはマイルスと別れることになる。
ジョー・ゲルバード
マイルスが34歳の画家・彫刻家ジョー・ゲルバードと出会ったのは1984年頃、ニューヨークの自宅アパートでエレベーターを降りた時だった。当時のマイルスは人生のどん底とも言える状態にあった。ゲルバードは彼にとって最後のパートナーであり恋人となり、二人は何日も一緒にアート制作に打ち込むようになる。アルバム『アマンドラ』のジャケット制作を共同で行い、同作には彼女に捧げた楽曲「ジョジョ」が収録された。また、1991年7月10日に行われた伝説的なパリ公演では、二人が手がけた作品がステージ背景として用いられている。さらに彼女は、ジャン=ミシェル・バスキアの作品をマイルスに紹介した人物でもあった。バスキアは、その後のマイルスの絵画表現だけでなく、ステージ・プレゼンテーションにも多大な影響を与えることとなる。
マット・フィリップスはロンドンを拠点とするライター兼ミュージシャン。Jazzwise、Classic Pop、Record Collector、The Oldieなどに寄稿。著書に『John McLaughlin: From Miles & Mahavishnu to the 4th Dimension』および『Level 42: Every Album, Every Song』がある。
ヘッダー画像:シシリー・タイソンとマイルス・デイヴィス。写真:エベット・ロバーツ/ゲッティイメージズ。
