ジャズの世界には、デューク・エリントンとビリー・ストレイホーン、ジョージ・アダムスとドン・プーレン、ディジー・ガレスピーとジェームス・ムーディー、ウェイン・ショーターとハービー・ハンコック、ビル・エヴァンスとジム・ホール、ジョン・スコフィールドとビル・フリゼールなど、素晴らしいコンビがたくさんいる。

しかし、マイルス・デイヴィスとギル・エヴァンスのコラボレーションは、ジャズ史上最も称えられたものであることは間違いない。それはまた、音楽の世界における偉大で永続的な友情のひとつでもあった。ギルはマイルスにとって父親のような存在であり、マイルスはギルに次々と新鮮なアイデアをもたらし続けた。「彼が兄弟だったとしても、これ以上親しくなれないだろう」と、マイルスは1962年に『プレイボーイ』誌に語っている。

彼らの出会いは、まるで運命によって定められていたかのようだった。1947年、マイルスは最初の妻アイリーン、息子のグレゴリー、娘のシェリルと共にニューヨークに住み、チャーリー・パーカーのクインテットの一員としてニューヨーク52番街の「ザ・スリー・デューセズ」に定期的に出演していた。ギルは常連客で、暗がりに座ってラディッシュの袋を頬張っていた。当時、ギルはクロード・ソーンヒル・オーケストラを率いており、楽器編成や音色への実験的なアプローチで称賛を集めていた。マイルスもソーンヒル・オーケストラをこよなく愛しており、『ダウン・ビート』誌には「最高のバンドだ」と語っている。

ギルはついに勇気を出してマイルスに「ドナ・リー」のリアレンジの許可を求めた。マイルスはこれを承諾した。その代わりに、エヴァンスがソーンヒル・オーケストラの定番曲として手がけたアレンジ「ロビンズ・ネスト」を見せてもらうことを条件として。

マイルスは、ウェスト55丁目にある中国人が経営するクリーニング店の裏手にあるギルの地下一室のアパートで開催されるサロンに通い始めた。そこは、ジェリー・マリガン、ジョン・ルイス、リー・コニッツ、ジョージ・ラッセルといったミュージシャンたちにとっても重要な集まり場だった。そこで、ソーンヒルの編成を参考にしつつ、14人編成のオーケストラを9人編成のノネットに縮小するという構想が生まれた。リード楽器については、満場一致でマイルスのトランペットが選ばれた。

マイルス・デイヴィスのアルバム「バース・オブ・ザ・クール」

彼らはブロードウェイと52丁目のノーラ・スタジオでリハーサルを行い、当時キャピトル・レコードのA&R担当だった元スタン・ケントン・バンドのアレンジャー、ピート・ルゴロが細心の注意を払って指導した。マイルス・デイヴィス・ノネットは、ブロードウェイのロイヤル・ルース・クラブで2度の有名な公演を行った。2回目の公演は、カウント・ベイシーとダイナ・ワシントンとの共演で、2週間に渡って行われた。マイルスは店の外に看板を出すよう強く求めた。そこにはこう記されていた。「マイルス・デイヴィス・ノネット――アレンジ:ジェリー・マリガン、ギル・エヴァンス、ジョン・ルイス」。

マイルスが1949年1月5日にキャピトルと契約を結ぶと(ちょうどその頃、デューク・エリントン楽団への参加要請を断ってもいる)、『クールの誕生』を構成する3回のセッションが、ニューヨークのWORスタジオで順次収録された。1949年1月21日、同年4月22日、そして1950年3月9日のことである。

制作コーディネーターを務めたルゴロは、全員が自分たちの演奏に納得するまで次の曲に進まず、各曲を何テイクも繰り返すことにこだわった。アルバムのタイトルを考案したのも彼とされているが、本人は謙遜して、セッションに立ち会った者なら誰でも思いついたはずだと言う。

『クールの誕生』には、革新的で印象的なムードやスタイルが随所に散りばめられている。いつ聴いても新鮮な「バップリシティ」は、あの有名な“フラット・ファイブ”の音を擁し、マイルスとギルが「クレオ・ヘンリー」というペンネームで書いた曲だ。これはマイルスの母の旧姓である。マリガンもいくつかの名曲を生み出した。マリガンのニックネームを冠した「ジェル」は、奇数拍子のフィールと不規則なパターンが革新的であり、「ロッカー」はそのメロディックな跳躍が聴く者を喜ばせる(1987年にはジャンゴ・ベイツのバンド、ヒューマン・チェーンが魅力的なカバーを残している)。一方「バドゥ」はバド・パウエルの「ハルシネーションズ」をマイルスが独創的に解釈したものであり、「デセプション」はジョージ・シアリングの「コンセプション」を機知に富んだ形で作り直したものだ。

しかし、この9人編成のバンドは保守的なジャズファンや評論家の間で物議を醸した。マイルスは、コニッツのような白人ミュージシャンを起用したことについて弁明を迫られ、これは彼のキャリアを通じて繰り返し取り上げることになるテーマとなった。また、マイルスはもはやヨーロッパの作曲家からの影響しか受けていないと主張する者もいた。彼はこれに反論し、自伝の中で次のように述べている。「あれは黒人音楽の根っこから生まれたものだ。俺たちはクロード・ソーンヒルのようなサウンドを目指していた。だが、ソーンヒル自身がデューク・エリントンとフレッチャー・ヘンダーソンからそのエッセンスを受け取っていたんだ」

『クールの誕生』が成功を収めたものの、マイルスとギルの道は平坦ではなかった。マイルスは1948年のクリスマス直前にチャーリー・パーカー・クインテットを脱退し、パリのジャズ・フェスティバルに出演してジュリエット・グレコと共に、フランスの知的な世界を魅了した。しかしニューヨークに戻ると不調に陥り、やがてヘロイン中毒に苦しむようになる。1950年3月の3度目のノネットのレコーディング・セッションを境に、彼がスタジオに戻るのは翌年の1月17日まで待たなければならなかった。

ギルはといえば、歌手たちのクラブ出演のための単発アレンジをこなす日々が続いていた。「正直なところ、あの頃はずっとマイルスを待っていたんだ」と彼はベン・サイドランに語っている(ギルとマイルスが次のコラボレーション、記念碑的な『マイルス・アヘッド』で再び組むのは、1957年まで待たなければならなかった)。

それでも『クールの誕生』は色褪せることなく生き続け、今もジャズの重要作のひとつであり続けている。その影響は数多くの形で広がった。モダン・ジャズ・カルテット、ジェリー・マリガンの10人編成のテンテットとチェット・ベイカーとの名高いカルテット、そして西海岸に生まれた数多くのクール・ジャズ・バンドへと。その音楽の反響はさらに遠くまで届いている。ジェリー・ゴールドスミスやマーク・アイシャムのネオ・ノワール調の映画音楽、1960年代のハービー・ハンコックによる重厚なホーン主導のアンサンブル、そして延長線上に位置する1980年代のマイルス自身の傑作『TUTU』にまで、その息吹は確かに流れ込んでいる。


マット・フィリップスはロンドンを拠点とするライター兼ミュージシャン。Jazzwise、Classic Pop、Record Collector、The Oldieなどに寄稿。著書に『John McLaughlin: From Miles & Mahavishnu to the 4th Dimension』、『Level 42: Every Album, Every Song』がある。


ヘッダー画像:マイルス・デイヴィス。写真:フランシス・ウォルフ/ブルーノート・レコード。