ソニー・ロリンズが5月25日、ニューヨーク州ウッドストックの自宅で逝去した。公式サイトでは、「創造的な人間の人生は、それが終わってもその次の生へと続いていくのだと思う。私は、この人生がすべてではないと信じていて、精神性を重んじる人はそれを分かってくれるだろう」という2009年の本人のコメントを引用しつつ、95年にわたる彼の生涯が幕を閉じたことがアナウンスされた。1957年にリリースした代表作のタイトルから「サキソフォン・コロッサス」(サックスの巨人)の異名を持ち、そのたおやかなトーンと歌心に満ちた即興演奏で日本でも最も愛されたジャズ・レジェンドの一人だった。

1930年9月7日、ニューヨークのハーレムで生まれたロリンズ。サックスに興味を持ったのは、7歳の頃にルイ・ジョーダンのレコードを聴いた時だった。11歳の頃に母親から中古のアルト・サックスを与えられたロリンズは独学で練習を重ね、高校時代にテナー・サックスへ転向。その後本格的にプロの道へ進み、1951年にリーダーとしてプレスティッジで初録音(『Sonny Rollins Quartet』)を行う。

その前年にロリンズはマイルス・デイヴィスと出会っているが、マイルスはロリンズについて「バード(チャーリー・パーカー)と同じようなレベルでサックスを吹いていると言う連中もいた」と証言している。マイルスやパーカー、セロニアス・モンクなどのレジェンドたちと共演を重ねていた当時について、ロリンズは「彼らとプレイすることを怖いと思ったことはなかった。前からそのコミュニティにいたように感じたんだ。彼らと同じレベルだったという意味ではなく、彼らが私を受け入れてくれていたという感じかな。それはとても素晴らしい経験だった」と語っている。

その後マイルスやパーカーとの共演を重ねつつもヘロイン依存に苦しみ、逮捕や音楽活動の停止も経験。1955年からクリフォード・ブラウンとマックス・ローチのバンドで活動を再開し、そのローチのサポートを得て再びバンド・リーダーとして再起。1957年に『サキソフォン・コロッサス』をリリースし、一躍知名度を上げることとなる。中でも、ヴァージン諸島出身だった母親が子供時代のロリンズに歌って聞かせていた子守唄の旋律をもとにしたキャッチーなカリプソ「セント・トーマス」は、生涯ロリンズの重要なレパートリーとなり、多くのジャズ・ミュージシャンやジャズ・ファンにも愛される曲となった。

ソニー・ロリンズ サキソフォン・コロッサス

Available to purchase from our US store.
購入

また、同年11月3日にはニューヨークのジャズ・クラブ、ヴィレッジ・ヴァンガードでライヴ録音も敢行。ピアノレス・トリオというスリリングな編成で昼夜2セット行われたレコーディングは、翌年に『ヴィレッジ・ヴァンガードの夜』としてブルーノートからリリース。同クラブで行われた初のライヴ・レコーディングとなり、その後現在に至るまで数多くリリースされてきた”At the Vanguard”レコードの先駆け的な存在となった。

Sonny Rollins - A Night At The Village Vanguard

ソニー・ロリンズ ヴィレッジ・ヴァンガードの夜

Available to purchase from our US store.
購入

2024年に行われたドン・ウォズとのインタビューで、ロリンズはこの録音について「なぜか、このトリオという形式が気に入っていたんだ。好きなミュージシャンたち――アイク・ケベックや、もちろんバード、そういう連中――の演奏を聴いてきたおかげで、音楽がどうあるべきかについて自分なりの考えを持てたからだと思う。そしてトリオという形式なら、自分が好きな人たちの音楽を自分なりに解釈するチャンスがもっと広がると思った。それも理由の一つだったよ。それに、当時のトリオの多くはピアノを伴った編成だったからね。ピアノがあると、ある特定の方向へと導かれてしまう気がして、それは自分が求めていたものではなかったんだ……要するに、自由の問題だったんだよ」と語っている。

彼のトリオ録音の中でも人気が高いのが『ウェイ・アウト・ウエスト』。同じく1957年に録音されたこのアルバムでは、ビング・クロスビーの名曲「俺は老カウボーイ」(I’m an Old Cowhand)や、「ソリチュード」といった楽曲を、音数の少なさを活かしつつスケールの大きいブロウで聴かせるロリンズが楽しめる。レイ・ブラウン(b)、シェリー・マン(ds)と共にロサンゼルスで録音されたこともあり、『ヴィレッジ・ヴァンガードの夜』とは違う雰囲気となっている点にも注目だ。

Sonny Rollins - Way Out West

ソニー・ロリンズ ウェイ・アウト・ウエスト

Available to purchase from our US store.
購入

全盛期を迎えていたロリンズだったが、自分の演奏を見つめ直すため突如シーンから姿を消す。全ての音楽活動をストップしている間も、マンハッタンのウィリアムズバーグ橋で人知れず練習を重ねたロリンズが活動を再開したのは1961年だった。RCAビクターと契約したロリンズは1962年に『橋』(The Bridge)をリリース。ジム・ホール(g)を迎えたカルテット編成はピアノレス・トリオのスリリングさとホールの独特な和声による空気感を兼ね備えていて、ロリンズの復帰にふさわしい1枚となった。1963年には初の来日公演も果たしている。

その後はインパルスへ移籍。同レーベルでは映画『アルフィー』のサウンドトラックが有名だが、他にも『オン・インパルス』(1965)や『イースト・ブロードウェイ・ランダウン』(1966)などの作品も残している。長尺の前衛的な内容にも挑戦しており、他の時代の作品とは違った聴きごたえがあるのも特徴だ。そしてそれ以降6年間はスタジオ・アルバムをリリースすることなく、再び全ての音楽活動をストップする。

活動停止中にヨガや瞑想、東洋哲学などを学んだロリンズは、1972年にマイルストーンから『ネクスト・アルバム』をリリースして再びシーンに戻ってくる。後年の特徴でもあるパーカッションを加えた編成が登場したのもこのアルバムからだ。ジョージ・デュークやトニー・ウィリアムスらが参加した1977年作『イージー・リヴィング』では、スティーヴィー・ワンダー「イズント・シー・ラヴリー」のカヴァーが話題に。マイルストーンからのリリースはその後約30年にもわたって続くこととなった。

2001年9月11日、マンハッタンの自宅アパートにいたロリンズは、わずか6ブロック先で起こったアメリカ同時多発テロ事件を目撃。世界貿易センターが崩れていくのを見た彼は大きなショックを受け、同時に自宅からの避難を余儀なくされた。そしてそのわずか4日後、彼はボストンでの公演を行う。「音楽の力を信じたい」というMCと共に繰り広げられた当日のコンサートは、2005年にライヴ作品としてリリースされることになった。この日の公演について、ロリンズは「何も記憶がない」と語っているが、そのことからもあの事件がどれほど衝撃的だったかがうかがえる。

ロリンズが最後に来日したのは2010年。その際には、「コンサートを聴きに来てくれる人達に素晴らしかったと感じてもらえるような最高のコンサートで最後を飾りたいんだ」と日本のファンへコメントを寄せている。肺線維症の診断を受けて2012年に最後のコンサートを行い、2014年には完全に演奏から退いたロリンズ。しかし彼が生んだ数々の名盤は今なお多くのファンに愛され、「エアジン」や「オレオ」などの彼が書いた楽曲は世界中のジャズ・クラブで演奏されている。それはまさに、冒頭で触れた彼の言葉を彼自身が体現しているかのようだ。彼が遺した録音や楽曲はこれからも新たなリスナーやミュージシャンとの出会いを繰り返し、そして新たな音楽へと繋がっていくだろう。