ソニー・ロリンズが1957年にマンハッタンの有名クラブ、ヴィレッジ・ヴァンガードでマイクの前に立ち、自己紹介をした時、彼はすでに当時最高のテナー奏者の一人という評判を得ていた。彼は絶好調で、ショーの曲や当時の人気曲を自分のスタイル思いのままに作り変えていたようだ。彼が編み出した自由でありながら見事な即興演奏は、長い間彼独自のものであり、成長期にチャーリー・パーカー、セロニアス・モンク、バド・パウエルなどの巨匠たちと共演したように、影響を受け続けていた。
ヴィレッジ・ヴァンガードでのこの日までの数年間、ロリンズは薬物から抜け出すことで新たな人生を歩み始めた。ロリンズはパーカーに音楽的インスピレーションを受けただけでなく、マイルス・デイヴィスとアルバム『コレクターズ・アイテムズ』をレコーディングした時期にドラッグをやめる手助けをしてくれたとも思っている。
「あれは私の人生の大きな転機だった」とロリンズはドラマーのアート・テイラーとのインタビューで認めている。「バード(パーカーの愛称)は私が薬物に溺れていることを知った。彼は本当に嫌がっていた。私は自分が間違ったことをしているに違いないと気づき、その後、彼がそれはいけないことだと教えてくれて、私はドラッグを絶った」
ケンタッキー州の米国公衆衛生サービス病院に入院した後、ロリンズは創作エネルギーを爆発させて演奏活動に戻り、プレスティッジのバンド・リーダーとして一連のアルバムを録音したほか、マイルス・デイヴィスのグループや、クリフォード・ブラウンとマックス・ローチの著名なハード・バップ・クインテットの一員としても活躍した。1956年のアルバム『サキソフォン・コロッサス』は、ロリンズを楽器の巨人、独特のサウンドを持つ作曲家、そして最高水準のバンド・リーダーとして彼をスターダムに押し上げた。
ロリンズは厳しい指導者だったかもしれないが、最も厳しかったのは、彼自身に対してであった。彼は定期的にキャリアを中断し、音楽的な成長にフォーカスした。この時期の大きな進歩は、ピアノ・レスのサックス・トリオを結成したことだった。ピアノとグループのコード要素をなくすことで、ロリンズは音域を広げただけでなく、リズムとハーモニーの可能性をも広げた。サックスを前面に押し出し、ロリンズは頭の中にあるものを自由に演奏することができた。
『ヴィレッジ・ヴァンガードの夜』は、1957年から58年にかけて録音されたロリンズのピアノ・レス・アルバム『ウィ・アウト・ウエスト』と『フリーダム・スイート』の間に位置している、三部作の中の1枚だ。これは彼自身の成長の重要な記録であるだけでなく、ビバップのハーモニーの基盤からよりルースで自由な地平へと方向転換した、ジャズのサウンド全般の転換点でもある。
このトリオの実験は数人の演奏者と行われ、ロリンズは当時ミュージシャンの入れ替わりが激しかったことを認めている。しかし、ヴィレッジ・ヴァンガードでのこの日、彼は午後のセットにドラムのピート・ラロカとベースのドナルド・ベイリー、そして夜のセットにエルヴィン ・ジョーンズとベースのウィルバー・ウェアを起用することにした。両ペアはそれぞれ独自の方法で演奏にアプローチしたが、彼らの立ち位置は同じだった。つまり、ロリンズの疾走するメロディに応えながら、パフォーマンスの土台を提供することだった。
その結果、演奏の自由さとリラックス感が際立った史上最高のライヴ・ジャズ・アルバムの1つが完成した。ロリンズは、いつものレイドバックし、遊び心あるムードで、ソロでは、爆発的な音の嵐の前に、間を置くのが特徴的だ。特に「チュニジアの夜」、「ゲット・ハッピー」、「朝日のようにさわやかに」の演奏で、その豊かな音色を生かし、長くて高揚感のある即興演奏を披露している。
ロリンズはチャーリー・パーカーとバド・パウエルを、疑う余地の無い天才だと考えていた。「私はバードやバドほど優れたミュージシャンではない」と彼は言う。「しかし、彼らと演奏し、彼らの周りにいたことが、私がそのレベルに到達しようとする助けになったのかもしれない。」
『ヴィレッジ・ヴァンガードの夜』は、偉大なジャズ・サックス奏者の全盛期をとらえており、ロリンズが目指した並外れた高みに到達した作品1つであると言っても過言ではない。
マックス・コールはデュッセルドルフを拠点とするライター兼音楽愛好家で、Straight No Chaser、Kindred Spirits、Rush Hour、South of North、International Feel、Red Bull Music Academy などのレコード・レーベルや雑誌に寄稿している
ヘッダー画像: ソニー・ロリンズ。 Photo: Francis Wolff / Blue Note Records.