キース・ジャレットは1971年に『フェイシング・ユー』を、マイルス・デイヴィスとの欧州ツアー中の合間をぬって録音し、コンサート形式でのピアノソロ活動を開始する。アルバムは完全な即興というわけではなく、シンプルなメロディのオリジナル曲に基づく即興演奏だった。発売当時この音楽への共感は、ECMというミュンヘンを拠点に制作をしていたインディー・レーベルの流通規模を超えて、世界中にひろがった。

 このアルバム以前、’60年代、進歩的な西欧の音楽家は、複雑でマッシブな音楽を模索し、方法論やコンセプトを重視していた。例えば、61年に書かれたピエール・ブーレーズ「ストリクチュール第2番」は、総音列技法を用いて書かれた。彼の前世代にあたるシェーンベルクやウェーベルンが12の音の出現順位だけを固定した音列技法を、音価(音の長さ)、ダイナミクス、さらには音列そのものにも応用した作曲技法だった。しかし作曲は単なる音列操作になり、要素の極度な細分化は聞き取ること、さらにはその違いを演奏で実現することが不可能な次元にまで達し、禍々しいほどの緊張感に満ちた音楽が、戦後から60年代まで書かれ演奏されていた。演奏家ー作曲家の分業化を基礎に極限にまで作曲書法を作曲家の知性によって高め、それを理解できる知性と身体能力を備えた演奏家が実現する。それは現在も変わることのない現代音楽の基調かもしれない。

 しかし60年代後半には一方で、調性、モードを用いたミニマルな素材を反復するだけのシンプルな表現への回帰のようなことも始まっていた。スティーブ・ライヒの「ピアノ・フェイズ」、テリー・ライリーの「In C」、ラ・モンテ・ヤングの「亀、その夢と旅」などがその出発点となった代表的な作品だった。彼らは非西欧の音楽構造に影響を受けた作品を発表し始めていたが、アフリカ、バリ、インドの伝統音楽に直接、あるいはジャズなどを経由して影響されていた。やがてヤングやライリーは純正律に調律されたピアノを使って自ら即興演奏し、西欧音楽のセントラル・ドグマでもある12平均律からの解放も訴えた。それまでひとつのトレンドだけにヘゲモニーを与えるような西欧音楽史観を揺さぶったし、音楽のインフラとして身体の復権を訴えた。

 60年代のジャズは、モードによる即興や最小限の素材を用いたコレクティヴな即興演奏(いわゆるフリージャズ)などが、主流派のモダン・ジャズに加わり、多様な表現の可能性を模索していた時代だった。ライリーやヤングに大きな影響を与えたジョン・コルトレーンはモード・ジャズの可能性を追求した一人だったが、彼が好んで用いたドリアン・モードは、いわば12音と同様に、スケールを構成する8音の音程構成が前半の4音、後半の4音で同じで、12音程による無調と同じようにスタティックな印象を与えるモードだった。ドリアンのこの特徴が転調のないひとつのトーナル・センターに固定した純正律などの12平均律以外に調律を用いた音楽へと、ライリーやヤングを突き動かしたのだと思う。スタティックだが豊かな倍音に満ちたサウンド。キースもこの響きに魅せられて、純正律などを用いる作曲家ルー・ハリソンのピアノ協奏曲を演奏、録音している。

 キースは『フェイシング・ユー』の後、小曲を用いた即興演奏ではなく、コンサートの前半と後半のみに分けられた長尺の完全即興演奏を始める。ヤングは64年に録音物として『ウエル・チューンド・ピアノ』と題した純正律によるピアノの即興演奏を発表していて、当初は45分という長さだった。後にコンサートで演奏するようになるのだが、次第に長くなり最長では6時間にも及んだ。キース以前に長いピアノの即興演奏の前例が無いわけではなかったが、平均律に寄りそった即興としては、確かにキースの即興演奏は異例で破格の規模だった。彼が平均律に留まった理由は、バッハの音楽への信仰にも近い愛着だったのかもしれない。

 長い間、このスタイルは変わることなく続いていたが、酷使し続けた体が悲鳴を挙げて数年間の沈黙を余儀なくされる。再開された時、与えられた時間を隅々まで埋めてしまうような演奏ではなく、短くセグメント化された即興を並べる形をとった。そして今回リリースされた『ローマ』を含む2016年の欧州ツアー五部作まで、このスタイルでの即興演奏が続く。’87年サントリーホールで録音されアルバム『ダーク・インターヴァル』は、沈黙以前にキースが突如試みたショートピースによる即興演奏集だったが、ヤングの『ウエル・チューンド・ピアノ』のように儀式めいた雰囲気を纏って、どこか特別なイベントのように設られていたように聴こえた。

キース・ジャレット ローマ

購入
Available to purchase from our US store.

 ブダペスト、ボルドー、ウィーン、ミュンヘン、そしてこの『ローマ』を聴くと、キースはひとつのコンサート全体を設計するナラティブだけではなく、欧州ツアー全体をあるひとつのナラティブで仕上げようとしていたことが伺える。デビュー当時演奏していたボブ・ディランのようなフォーキーな響き、バッハやショスタコーヴィッチらのフーガと前奏曲集を経て身につけた運指が生む複雑な音の運動、プロコフィエフのソナタのような切れ味のオスティナート。グルジェフの聖歌のようにシンプルでいて神々しい歌、そしてブルージーな、ゴスペル風のバンプに乗せて歌うキースのピアノ。アンコールに用意されたスタンダード。こうした方向性で五会場すべての即興演奏をまとめたことで、キースに与えられた録音、ピアノ、会場の響きの違いをより厳密に比較しながら楽しむことができる。そしてあらためてピアニストとしての天才的なタッチのコントロールに感服させられるだろう。

 「フェイシング・ユー」から差し込んできた朝日のように清々しい音楽は、それまでテクニックやコンセプトで硬直しかかっていたリスナーの耳を解放した。このローマ公演を含む欧州ツアーすべての演奏には、長きに渡って常に可能性を求め、鍵盤に十指を手繰らせるキースの姿勢が伝わってくる一方で、この欧州ツアーに求めた、あるナラティブの完成を執拗に求めるこれまでにない演奏家の態度が伺える。なんだか切ない。

 これまで私たちは演奏が終わる度に即興の残響と戯れ、キースは再び何もない沈黙の空間に落ちていく。しかしこの儀式のようなやりとりが再開されることは、しばらくないのかもしれない。

   

キース・ジャレット:アーカイヴ・フィルム・コレクション(ブルーレイ・ディスク)も発売中!

キース・ジャレット ライヴ・アット・イースト 1993【Blu-ray】

購入
Available to purchase from our US store.

キース・ジャレット 東京ソロ 2002【Blu-ray】

購入
Available to purchase from our US store.

      

ヘッダー画像:Photo © W. Patrick Hinely / ECM Records