歴史は、火曜日の夜であれ、日曜日の早朝であれ、その気になればいつでもどこでも起こるものだが、それが記録されることはめったにない。しかし、時には幸運にも、その場に居合わせた誰かが何らかの機材で、その瞬間を記録していることがある。携帯電話やYouTubeが存在しなかった時代には、その瞬間を逃すまいと決意し、高価な録音機材を揃える意志を持った人物が必要だった。フランク・タイベリは、まさに歴史が生まれようとしていることを見抜くことのできた人物であった。事情を知る限られたジャズ・ミュージシャンや愛好家の間では、彼が録音した音源はよく知られた「公然の秘密」として語り継がれてきた。1960年代初頭、ジョン・コルトレーンがナイトクラブで演奏する姿を収めたタイベリのオープンリール・テープは、多くの人々の話題に上りながらも、ごくわずかな人しか耳にすることのできない音源だった。そして実際にそれを聴くことができた、ごくごく限られた人々にとって、それらの録音は、全盛期のコルトレーンという創造的な彗星の思考の内側を垣間見ることのできる、極めて貴重な記録だったのである。

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時が経つにつれ、タイベリのテープは伝説的なオーラを帯び、実際に聴かれることよりも、噂として語り継がれるようになった。しかし、今やその状況は一変した。ジョン・コルトレーンの生誕100周年を迎える2026年、これらの歴史的な録音がついに世に送り出される。

フランク・タイベリとは一体何者なのか?現在97歳の彼は、ニュージャージー州カムデンで育ち、15歳で公の場で演奏を始めたサックス奏者、編曲家、そして教師である。1940年代後半から1950年代前半にかけて、ベニー・グッドマン、アービー・グリーン、ディジー・ガレスピーといった面々から、サイドマンとしての腕前を求められた。1950年代後半、家庭を持つようになると、彼は地元に留まり、フィラデルフィア周辺で定期的に演奏活動を行い、社交イベントや劇場オーケストラでの演奏、ジングルの録音、その他のスタジオ仕事などに携わった。ファンとしての彼の情熱は、当時のポスト・ビバップに注がれており、彼は街の活気溢れるシーンの一部であるクラブを頻繁に訪れ、主に黒人居住者が多い南部の地区にある「ペップス・ミュージカル・バー」や「ショーボート」といった会場を好んで通い、ジミー・ヒース、ベニー・ゴルソン、ジョン・コルトレーンといった地元のスターたちの演奏を聴いていた。


タイベリは、プレステッジからリリースされた『Cattin’ with Coltrane and Quinichette』を初期のお気に入りとして愛聴し、また1950年代後半にはマイルス・デイヴィスのクインテットの一員として演奏するコルトレーンの姿をライヴで目にすることで、彼の音楽を深く知るようになった。1960年、コルトレーンが自身のバンドを結成し、リーダーとして活動を始めると、タイベリは、このサックス奏者が急速に発展させていた新しいアプローチに魅了された。「彼の演奏にはただただ驚かされました」とタイベリは語る。「彼は印象派の芸術家でした。技術的な能力や構成力だけでなく、演奏中に得た感情までもを、見事に演奏に取り入れることができたのです。これが未来の形だと直感したのです」


タイベリの耳がとりわけ惹きつけられたのは、コルトレーンが好んで用いた、別のハーモニーを重ね合わせる手法であった。それは演奏者に、より豊かな感情表現の語彙と、より長く自由なソロを可能にするものだったのである。「彼は即興演奏の余地を広げ、豊かな色彩を加えました」と彼は説明する。「そうした演奏ができることで、ミュージシャンははるかに多くの可能性を手にすることができるのです」


こうした手法は、ミュージシャンの間では一般に「コルトレーン・チェンジズ(Coltrane Changes)」として知られている。しかしタイベリ自身は、コルトレーンの革新を表す言葉として「ディセプティブ・レゾリューション(deceptive resolutions=偽終止)」という表現を好んで用いている。「それは、ひとつの調性に留まり、8小節を演奏するといったものとは全く違いました。彼は「ボディ・アンド・ソウル」や「言い出しかねて(I Can’t Get Started)」のようなスタンダードを、より現代的な形へと見事に作り変えることができたのです。それは私にとって大きな刺激となりました。というのも、声部進行(ヴォイス・リーディング)の可能性が格段に広がり、終止進行やディセプティブ・レゾリューションのおかげで、演奏を大きく発展させることができるからです。ある調性で演奏を始め、曲本来には指定されていない別の調性へ移り、そこから再び本来の調性へ戻ることができる。そうすることで、より自由に、そしてより色彩豊かに演奏できる余地が生まれるのです」


コルトレーンの1960年のアルバム『ジャイアント・ステップス』には、タイトル曲や、とりわけ「カウントダウン」といった画期的な楽曲が収録されており、タイベリが感嘆した革新的な試みが集約されていた。その価値をすぐに理解した者もいれば、当時は理解できなかった者も少なくなかった。「当時の数年間で、コルトレーンはおそらくミュージシャンたちから最も大きな関心を集める存在になっていったと思います」とタイベリは振り返る。


タイベリは一人のホーン奏者として耳を傾け、自身のサクソフォン演奏の知識と技術を広げようとしていた。そしてその過程で、ライヴという気取らない環境におけるコルトレーンの演奏には、スタジオ録音とは異なる何かがあることにも気づいた。それは、彼が何よりも好んだコルトレーンの姿であった。「そこには、彼が残したどのアルバムよりもリラックスした雰囲気があったのです」とタイベリは語る。


「私は彼のアルバムを全て持っていました。しかし私には、クラブで彼が見せていたような演奏やインスピレーションには到底及ばないように感じられたのです。本当にくつろいだ雰囲気でした。私が話しているのは、ショーボートや、当時のペップスのような小さなクラブのことです。ニューヨークで行ったクラブもそうでした。飾り気のないバーで、ビールは1ドル。そんな場所だったのです。そして私は、ついに録音機を買いました」

タイベリが購入したのは、Magnavox TR-100というオープン・リール式テープ・レコーダーだった。マイクが付属し、3インチ・リールを使用、録音時間を長くするため毎秒3と3/4インチ(3¾ ips)の低速で録音できる機種である。広告では「ポータブル」と謳われていたものの、実際には重く扱いづらい代物だった。それでも彼は、その録音機をコルトレーンのライヴへと運び込み、演奏を録音し始めた。狙いは主にサクソフォン・ソロである。布袋に入れた録音機を膝の上に置き、マイクをコートの内側に通しながら録音する。次の曲を逃さないため、「まるで盲人のように」リール交換ができるまで練習を重ね、テープを正確にセットする技術を身につけた。そして、1本のリールにちょうど1曲まるごと収まることを願いながら、貴重な演奏を記録し続けた。

「彼が演奏していた内容は、とても一度にすべてを捉えられるようなものではありませんでした。テープを交換しなければならず、その間に録音は途切れてしまう。それでも彼は、お構いなしに演奏を続けているのです。30分や35分も1曲を演奏することが珍しくありませんでしたから、リール1本では到底足りなかったのです」

彼の演奏スタイルは、全部を録音するのは本当に難しかったんです。テープを交換せざるを得ないのですが、そうすると録音に空白ができてしまい、彼は[of the tape]反対側で演奏を続けてしまうんです。30分や35分も曲を演奏する時は、録音スペースが足りないことがよくありました。

タイベリにとって、自宅へ持ち帰ったテープこそが、本当の「授業」の始まりだった。「彼が演奏していたことを書き起こせるというだけで、本当に胸が躍りました。いつだってそうでしたし、今でもこの演奏を聴くたびに、必ず何か新しい発見があります。楽しめることがあり、自分で演奏できることがあり、研究できることがあり、そして自分の演奏に取り入れられることがあるのです」


最終的に、彼のアーカイブには80本以上のリールが蓄積されることとなった。その中には、フィラデルフィアやニューヨークの様々な会場で行われた数十回に及ぶコルトレーンのクラブ公演、合計60時間以上の演奏が収められていた。しかし、彼にはそれらの録音を公にしたり、発売したりするつもりは全くなかった。 リールの箱に書かれたメモも、ごく簡単なものばかりだった。日付が記されているものもあれば、記されていないものもある。会場名が書かれていないことも珍しくなく、演奏したミュージシャン全員の名前が記録されているテープは、ごく僅かしか存在しなかった。


タイベリは音質にも重点を置いていなかったため、各リールの聴きやすさには大きなばらつきがある。リールに収録できる音楽の量を最大限に増やすため、彼は1トラックでのみ録音し、その後リールを裏返してテープの残りの半分にも同じように録音した。彼の優先事項は、手頃な価格の機材で、コルトレーンのサックス演奏を可能な限り多く保存することだけだった。これらのテープは、彼が一人で研究し、その演奏を吸収するためのものだった。そして長年にわたり、その存在は彼の教え子を除けば、ごく一部の人しか知らない、ほとんど完全な「秘蔵音源」のままであり続けた。「私が彼を録音していた最大の目的は、本当の情報を得ること、そしてハーモニーの本質を学ぶことでした。そうすることで、自分自身がより良い演奏をできるようになりたかったのです。そして実際に、それは実現しました」とタイベリは語る。「さらに、その知識をたくさんの若い生徒たちに教えることもできました」


1980年代、タイベリのキャリアは、やがてボストンのバークリー音楽大学で即興演奏のテクニックを教える教職に就くことに繋がり、また1987年にクラリネット奏者のウディ・ハーマンが亡くなった後は、そのビッグ・バンドのリーダーを引き継ぐことにもなった。タイベリは1969年にハーマンの「ヤング・サンダリング・ハード」に加入し、すぐに同バンドが1970年代を代表するモダンなビッグ・バンドの一つへと成長する一助となった。1973年と1974年の2年連続で、タイベリはトランペット奏者兼編曲家のビル・ステープルトンと協力して編曲を手掛け、アルバム『ジャイアント・ステップス』と『Thundering Herd』で最優秀ジャズ・パフォーマンス部門のグラミー賞受賞に貢献した。どちらのアルバムも、コルトレーンの楽曲と、タイベリが丹念に録音した音源から得た発見に基づいて生まれたアイデアを特徴としていた。


「もちろん、私にとって最大の誇りは、1979年のモントレー・ジャズ・フェスティバルで録音されたアルバム『Woody and Friends』の「Countdown」のアレンジを書いたことです」とタイベリは振り返る。そして彼は、自身がどれほどコルトレーンから影響を受けたかを、端的にこう語る。「もしコルトレーンがいなかったら、私は教師にはなっていなかったでしょう。同じ人間にはなっていなかったと思います。おそらく、私は伝統的なプレイヤーのままだったでしょう。もちろん、それまでにも段階は踏んできました。レスター・ヤング、チャーリー・パーカー、アル・コーン…。しかしトレーン(コルトレーン)以降、私は現代的なジャズへと踏み込んでいったのです」


畏敬の念ゆえだったのか、それとも単なる恥ずかしさだったのか、タイベリはついに一度もコルトレーン本人と言葉を交わすことはなかった。

「彼と一緒に過ごしたことは一度もありません。バーに出てくることもありませんでしたし、演奏前に曲名を紹介することもありませんでした。ただ一度だけ、クラブを出る彼が楽器を車のトランクに積み込んでいるところを見かけたことがあります。そのとき私は、顔見知りだったマッコイ(タイナー)と話をしていました。楽屋で彼が練習している音を耳にしたこともあります。でも、その頃の私はまだ若かったので、楽屋へ入っていく勇気はありませんでした。彼は様々なキーでフレーズを繰り返し練習していました。その様子も、実はテープに少し録音されています」

今回、この特別なレコード・ストア・デイ限定盤に収録された2曲は、タイベリが残した録音として初めて商業リリースされるものであり、最新のオーディオ・マスタリング技術によって音質面でも大きく磨き上げられている。そしてこれは、コルトレーン生誕100周年となる2026年に、この後さらに続々と登場する大規模なリリース・プロジェクトの序章にすぎない。その全ては、ジョン・コルトレーン遺産管理団体(Coltrane Estate)の全面的な承認と協力のもとで実現したものである。

—アシュリー・カーン
2026年1月

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アシュリー・カーンは、アシュリー・カーンは、グラミー賞を受賞したアメリカの音楽史家、作家、大学教授、プロデューサー。ニューヨーク大学のクライヴ・デイヴィス・インスティテュート・フォー・レコーテッド・ミュージックで教鞭を執るほか、カルロス・サンタナの受賞歴のある自伝『The Universal Tone: Bringing My Story to Light』(リトル・ブラウン、2014年)を共著し、カルロス・サンタナを題材としたドキュメンタリー映画『Carlos』(2023年、イマジン・ドキュメンタリーズ/ソニー・ピクチャーズ・クラシックス)のプロデューサーも務めている。