最も偉大なジャズ・ミュージシャンは誰かとアーティストに質問すると、マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーン、ビル・エヴァンスなどと並んで必ず名前が挙がるのがセロニアス・モンク。寡黙な性格でいつも変な帽子を被り、「バップの高僧(The High Priest of Bop)」と呼ばれ、一見すると下手に弾いているようにも感じられるような癖のあるプレイ・スタイル、そして演奏中に立ち上がってピアノを弾かずに踊り出すこともあったなどのエピソードから、少しとっつきにくい印象を持たれることもあるモンクだが、ジャズに限らず最も偉大な作曲家・アーティストだと心酔しているミュージシャンも多い。今回はそんな彼の生涯と代表作を振り返りながら、巨人セロニアス・モンクの少し変わった、そして多くのミュージシャンから今も愛されている音楽について触れていきたい。
1. 生い立ち
モンクは1917年10月10日、ノースカロライナ州のロッキーマウントという小さな町で生まれた。兄弟は姉と弟がいたという。1922年に家族でニューヨークのマンハッタンに移住。最初に習った楽器はトランペットで、9歳になるとピアノに転向。アルバータ・シモンズというピアノ教師から、ファッツ・ウォーラーやジェイムス・P・ジョンソンのようなストライド・スタイルのピアノを習っていた。モンクの母も彼に讃美歌を教え、母と共に教会へ赴くこともあったという。
高校を中退後、サイモン・ウルフというピアニストからクラシック・ピアノを2年間習ったモンクは、自身のフォーカスをジャズに向けていく。16歳から演奏活動を始め、1940年代にはマンハッタンのミントンズ・プレイハウスというクラブのハウス・ピアニストとして雇われ、本格的な活動をスタートさせていく。
2. レコーディング・キャリアのスタート
モンクが参加した初めてのレコーディングは、1944年のコールマン・ホーキンスのセッションだった。短いながらも印象的なこのイントロを聴くと、彼の唯一無二のスタイルが既に見え隠れしていることが分かる。その独特なスタイルからか、モンクは当時隆盛を極めていたビ・バップの主流からは外れた存在であり、本人もその状況に失望していたという。しかしホーキンスは早くからモンクの才能を高く評価していて、それに恩義を感じたモンクは後年自身のレコーディング・セッションへホーキンスを招待している。
苦境が続いたモンクだったが、1947年にダウンビート誌が彼の特集を掲載し、それを目にしたサックス奏者のアイク・ケベックがモンクをブルーノート・レコードの創設者、アルフレッド・ライオンと当時の妻ロレイン・ゴードンに紹介。すぐに同レーベルで初のリーダー作をレコーディングすることになった。レコーディングは1952年まで断続的に行われ、それらは後に『ジーニアス・オブ・モダン・ミュージック Vol. 1』としてまとめられ、彼の代表作のひとつとなっている。「ラウンド・ミッドナイト」や「ルビー・マイ・ディア」、「ウェル・ユー・ニードント」など、彼が後年まで演奏し続けた代表曲がずらりと収録されていて、彼の音楽への入門盤としても最適な1枚となっている。
セロニアス・モンク ジニアス・オブ・モダン・ミュージック
Available to purchase from our US store.当時のセールスは芳しくなかったとのことだが、人生で出会った3人の天才のうちの1人にモンクを挙げるほどアルフレッド・ライオンはその才能に魅了されており、忍耐強くレコーディングとプロモーションを続けた。モンク自身も、バド・パウエルの薬物所持に巻き込まれて禁固刑を受けたり、ニューヨークのクラブで働くために必要なキャバレー・カードを取り上げられたりと不運な出来事が続いたが、シアターや他の都市での演奏活動などでなんとか苦境をしのいでいた。そして1952年、ブルーノートでの録音を終えたモンクはプレスティッジと契約し、リーダーとしてのキャリアを積み上げていく。
3. 伝説のプレスティッジ&リヴァーサイド時代
プレスティッジ所属時代のモンクは、ソニー・ロリンズやアート・ブレイキー、マックス・ローチなど錚々たるメンバーとのセッションを重ねていった。中でも有名なのは、1954年12月24日のクリスマス・イヴに行われたマイルス・デイヴィスとのセッションだ。このセッションでは、マイルスが先輩のモンクに対して「俺のバックでピアノを弾くな」と言い、それに怒ったモンクが途中で演奏を止めたというエピソードが生まれた(後にマイルス自身がそれは作り話だと否定している)。そのセッションを経てリリースされたのが、マイルス名義の名盤『マイルス・デイヴィス・アンド・ザ・モダン・ジャズ・ジャイアンツ』だ。
マイルス・デイヴィス マイルス・デイヴィス・アンド・ザ・モダン・ジャズ・ジャイアンツ
Available to purchase from our US store.同年初めてパリを訪れたモンクは、数々のジャズ・ミュージシャンのパトロンとして有名だったパノニカ・ド・ケーニスウォーター男爵夫人と出会う。以降彼女は様々な苦境にあったモンクを献身的にサポートし、それに恩義を感じたモンクは、後に「パノニカ」という美しいバラードを作曲し、彼女に捧げている。
1955年からはリヴァーサイドと契約して活動。「難しい音楽」というイメージからセールスは振るわないままだったが評論家からの評価は著しく高まり、代表作をいくつもリリースしていく。その中の1枚が、上述の「パノニカ」も収録した1957年発表の『ブリリアント・コーナーズ』。おどろおどろしいタイトル曲にはレコーディング・メンバーも苦労したようで、収録された音源は複数のテイクを編集して繋いだものとなっている。モンクのオリジナル曲を中心に構成したこのアルバムは、彼にとって商業的に成功した最初の作品だった。
セロニアス・モンク ブリリアント・コーナーズ
Available to purchase from our US store.その後パノニカの助けもあってキャバレー・カードを再び取得したモンクは、伝説的なジャズ・クラブ、ファイヴ・スポットを中心にニューヨークでの演奏活動を本格的に再開。ジョン・コルトレーンと共演を重ねたのもこの頃で、現在では当時のライヴ・レコーディングも含めて多くの録音を聴くことが出来る。中でもおさえておきたいのはスタジオ録音の2作、『モンクス・ミュージック』と『セロニアス・モンク・ウィズ・ジョン・コルトレーン』。この2作には、モンクを初めてレコーディングに起用した恩人コールマン・ホーキンスも参加している。『モンクス・ミュージック』収録の「ウェル・ユー・ニードント」でモンクが自身のソロの後に「コルトレーン!コルトレーン!」と叫んで呼び込んでいることも有名だ。
セロニアス・モンク モンクス・ミュージック
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セロニアス・モンク セロニアス・モンク・ウィズ・ジョン・コルトレーン
Available to purchase from our US store.セールスもようやく軌道に乗り、ニューヨークでの活動も本格的に再開。全盛期とも呼べる時期をリヴァーサイドで過ごしたモンクは、1962年からはコロムビア・レコードと契約し、活動を続けていく。
4. 苦しんだキャリア晩年
コロムビア時代のモンクも引き続き『モンクス・ドリーム』や『ソロ・モンク』、『アンダーグラウンド』など多くの名盤を輩出。1964年からはチャーリー・ラウズ(ts)、ラリー・ゲイルズ(b)、ベン・ライリー(ds)という不動のカルテットで世界中を精力的に回っていく。多くのライヴ盤もリリースされているが、中でも話題を呼んだのは2020年にリリースされた『パロ・アルト』。1968年、カリフォルニア州パロ・アルトにある高校に通う男子生徒の希望で行われた学内コンサートの模様を収録したこの未発表録音は、彼の不動のカルテット最後の録音ともなっている。モンクのプレイも絶好調で、白熱のライヴ録音を堪能することが出来るおすすめの1枚だ。
セロニアス・モンク パロ・アルト~ザ・ロスト・コンサート
Available to purchase from our US store.1970年代になると健康面の問題で表舞台からは姿を消し、1971年にブラック・ライオンという英国のレーベルで行ったセッションがモンク最後のレコーディングとなった。精神的な疾患も長年患っていたという。生涯最後の6年間は、ニュージャージー州にあるパノニカの家へ身を寄せ、彼女は献身的に彼の生活をサポートした。ピアノはあったが彼は弾こうとせず、誰かと話すことも稀だったという。そして1982年2月17日、脳梗塞により64歳でモンクは亡くなった。
こうしてモンクの生涯を紐解いていくと、彼が順調に活動出来たのはごく僅かな期間だったのかもしれない。自身の音楽が理解されずに苦しみ続け、不運な出来事にも数多く見舞われ、晩年は精神を蝕まれて人知れず静かにこの世を去った。しかし彼は生涯信念を曲げずに自身の音楽を演奏し続けた。それが「バップの高僧」としての彼の生き方だったのかもしれない。そんな彼の人生へのトリビュートとして、1988年にはクリント・イーストウッドの製作総指揮によりドキュメンタリー『セロニアス・モンク ストレート・ノー・チェイサー』が公開された。
現在では彼が書いた多くの曲がジャズ・スタンダードとなり、今も世界中で毎晩演奏されている。ジャズという言葉の中の小さくない割合を占めているセロニアス・モンクの音楽。彼の音楽に触れれば、より一層広いジャズの世界を体験できるかもしれない。
