1950年代末、マイルス・デイヴィスはジョン・コルトレーンを自身のバンドから解雇した。

どうやら、卓越した才能を持つこのサックス奏者のヘロインとアルコールへの依存が手に負えなくなっていたようである。彼の演奏は素晴らしかったが、マイルスが求めるレベルほど安定しておらず、信頼性にも欠けていた。もっとも、マイルスのバンドでの録音を追っていけば、コルトレーンの演奏様式が飛躍的に変化していく過程を、まさにリアルタイムで聴くことができる。1958年、リーダーとしてブルーノートに唯一吹き込んだ『ブルー・トレイン』を発表した時点で、彼のテナー・サックスの音色はすでに唯一無二のものとなっていた。

ジョン・コルトレーン / ブルー・トレイン

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コルトレーンは1959年の『ジャイアント・ステップス』、そしてマイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』への参加によって商業的な成功を収めた。コルトレーンもマイルスも、ハード・バップの厳格な枠組みから離れ、より自由なモーダル・ジャズの領域へと歩みを進めていたのである。それは当時のジャズ界の主流にとって急進的な変化であった。。

熱心なジャズ・ファンであれば、コルトレーンは最初の一音で聴き分けることができた。しかし、その演奏スタイルを一言で言い表すことは誰にもできなかった。優れたテナー・サックス奏者はほかにも数多く存在したが、コルトレーンはただ「コルトレーンのように」演奏したのである。「超越的」、「スピリチュアル」といった言葉も、彼の音色を十分に表現しているとは言い難い。

コルトレーンは自分自身のバンドを結成したいと考えていたが、なかなか理想のメンバーに巡り会えなかった。強権的で独裁的なリーダーとして恐れられていたマイルスとは異なり、彼は上下関係を強いるようなバンドにはしたくなかったのである。彼が求めていたのは単なる伴奏者ではなく、新しい発想を持ち寄る刺激的な音楽家たちであり、未知の領域へ共に踏み込めるミュージシャンたちであった。

数多くのドラマーやピアニストを試した末、1960年秋、ついにエルヴィン・ジョーンズとマッコイ・タイナーに落ち着く。以前から二人との共演を望んでいたものの、当時はまだ契約上の事情があったのである。そして、ジミー・ギャリソンが加入するまでにはさらに1年を要し、その間はスティーヴ・デイヴィスとレジー・ワークマンがベースを担当していた。

写真:フランシス・ウォルフ/ブルーノート・レコード

カルテットの結成

1962年、このクラシック・カルテットはインパルス・レコードから『コルトレーン』をリリースした。この編成による最初のアルバムであり、スタンダード曲を中心とした美しい作品ではあったが、比較的穏やかなセッションでもあった。

ジョン・コルトレーン A Love Supreme - カセットテープ

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その後数年間には、『ジョン・コルトレーン・アンド・ジョニー・ハートマン』(1963年)、『クレッセント』と『至上の愛』(ともに1964年)、『ジョン・コルトレーン・カルテット・プレイズ』(1965年)といった重要作が続く。この時期にはさらに多くのレコーディングが行われたが、当時は未発表のまま残されたものも少なくなかった。

カルテット結成当初、コルトレーンとジョーンズはいずれも30代前半で、まさに絶頂期にあった。ギャリソンは数歳若く、タイナーに至ってはクラブで合法的に演奏できる年齢になったばかりであった。しかしピアニストとしてはすでに完成された存在であり、この新しい環境がもたらす高いエネルギーと演奏水準は彼をさらに奮い立たせ、ジャズ史上でも屈指の技巧的なピアノ・ソロを数多く生み出すことになった。

個性豊かな面々の出会い

4人のミュージシャンの性格は、これ以上ないほど対照的だった。コルトレーンは内向的で繊細、物静かな人物だったのに対し、タイナーは若く野心的で、常に自分の実力を証明したくてたまらなかった。ギャリソンは社交的でショーマン気質、そして人生を楽しむタイプであり、ジョーンズは予測不能な存在だった。1950年代末のコルトレーンと同様、ジョーンズもまた自らの内なる悪魔と闘っていた。あるときは飲酒運転でリーダーの車を事故に遭わせてしまったこともある。しかしコルトレーンは彼を解雇せず、ただこう言った。「車ならまた買える。でも、エルヴィン・ジョーンズは替えがきかない」

カルテット時代、タイナーとジョーンズはそれぞれの演奏技法に革命をもたらした。今日では通常「ポスト・バップ」という言葉で表現されるこの種の音楽を演奏する上で、これほど刺激的な組み合わせは想像できない。また、それを再現することなど到底不可能だ。今になって彼らのように演奏しようとする者がいても、単なる模倣と見なされるだけであり、比較にも耐えられないだろう。

見過ごされがちなのがギャリソンの存在である。彼はコルトレーンやタイナーの自由奔放な演奏を堅実に支える土台でありながら、その役割だけに甘んじていたわけではない。彼の本当の貢献を理解するには、ライヴ録音を聴く必要がある。

例えば『ライヴ・アット・バードランド』(インパルス、1964年)に収められた「アフロ・ブルー」である。ギャリソンは単純に4分の4拍子を刻むだけではなく、ほぼ全編にわたって8分音符にアクセントを加え続けている。ロン・カーターほど偉大で革新的なベーシストであっても、もしマイルスの録音で同じことをしていたら、バンドを追われていただろう。それは当時ベーシストに期待されていた、いわゆる「次の仕事を得るための無難なベース・ライン(マネー・ノート)」とはまったく異なる演奏だったのである。

ギャリソンが真に不朽の存在となった瞬間は、言うまでもなく『至上の愛』冒頭の、あのシンプルでありながら圧倒的なベース・ラインである。今日のベーシストはテーマ全体を弾き通すことが多いが、オリジナルではギャリソンは数回演奏しただけで、その後はコルトレーンの確かな存在に触発されるように自由な演奏へ飛び立っていく。彼はリーダーが演奏しているときにこそ最も自由になれるようであり、一方タイナーのソロでは、より堅実な土台としての役割に徹している。

そして最後に重要なのがタイム感である。ギャリソンはややビートの前に乗る傾向があり、ジョーンズはわずかに後ろへ引く。その押し引きの緊張関係こそが、このカルテット特有のスリルを生み出している。この手法自体はコルトレーン・カルテットだけのものではないが、そのおかげで音楽は、いつ崩壊してもおかしくないような危うさを保ちながら、生き生きとした躍動感を獲得している。

「ニュー・シング」へ

1965年11月、タイナーが脱退し、カルテットは終焉を迎える。この頃には、彼の師であるコルトレーンは、ニューヨークのフリー・ジャズ・アンダーグラウンドで生まれた「ニュー・シング」を積極的に受け入れていた。グループ最年少だったタイナーは、ポスト・バップとモーダル・ジャズを演奏し続ける道を選び、自らのバンドを結成する。そして名盤『ザ・リアル・マッコイ』を皮切りに、ブルーノートで数々の優れたアルバムを発表していく。

マッコイ・タイナー ザ・リアル・マッコイ

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elvin jones - poly-currents - front cover

エルヴィン・ジョーンズ ポリ・カレンツ

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ジョーンズも、『アセンション』と『メディテーションズ』の録音後、1966年3月に脱退した。コルトレーンの死後、1968年にニューヨーカー誌の取材で彼はこう語っている。「コルトレーンの元を去りたかったわけではない。でも、メンバーが変わってしまったんだ。彼はもう一人ドラマー(ラシード・アリ)を加えた。そのせいで、自分が何を演奏しているのか聞こえなくなってしまった。あまりにも多くのことが同時に起きていて、私には行き過ぎだと思えた」

一方、ジミー・ギャリソンは最後までコルトレーンのそばに残った。コルトレーンが選んだ新しい道を恐れなかったのである。もともと彼はカルテット加入以前から、オーネット・コールマンのグループでフリー・ジャズを演奏していた。ギャリソンは、ジョーンズに代わってラシード・アリ、タイナーに代わってコルトレーンの妻アリス・コルトレーンが参加した1967年の『クル・セ・ママ』と『エクスプレッション』にも加わっている。そして1967年4月、そのグループは最後のコンサートを行った。そのわずか3か月後の1967年7月、ジョン・コルトレーンはこの世を去ったのだ。


ステファン・クンツェは、ベルリンを拠点とする音楽/カルチャー・ライター。著書も執筆している。アンビエント音楽や実験音楽に関するニュースレター『zensounds』を発行している。